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ネットショップ経営
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旅行や自転車、ツーリング等など
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アジアン雑貨&シルバーアクセサリーのネットショップ『イーストスワロー』を経営しています。
シルバー系のアクセサリー等をはじめとして、バッグや小物、さまざまな物を扱っておりますので是非お立ち寄り下さい。
http://www.east-swallow.com/
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「ロックなのに良い子でどうすんの?」
Ken Yokoyamaは、ステージ上からそう言い放った。
言葉に呼応した観客の間に、たちまちモッシュ・ダイヴが巻き起こる。
それは挑発だったのだ。
目の前の観客と、主催のロッキング・オン社へ向けての。
Yokoyamaが観客を煽動した理由。
それはROCK IN JAPAN FESTIVAL(以下RIJF)において、今年から執られるようになったルールに起因する。
すなわち、禁止行為であるモッシュ・ダイヴに対して課す、退場という厳重な処分のことだ。
激しいビートに合わせ、観客同士がお互いの体をぶつけ合うモッシュ、群衆の頭上に身を投げ出して、転がってゆくダイヴ(クラウドサーフとも言う)。
これらはもはや、ロックのライブには付き物の行為だが、その荒っぽさから、けが人が出る場合もしばしばだ。
RIJFに限らず、ほとんどのライブ会場において、モッシュ・ダイヴは禁止行為とされている。
しかし実際は、規制を謳いながらも黙認され、具体的な処罰が下されることはほぼない。
そんな中にあって、RIJFで執られた退場という措置は、異例と言えるだろう。
ロッキング・オン社がこうした重い処分を執ることにしたのは、同社が主催する冬フェスCOUNTDOWN JAPANにおいて、後遺症が残るけが人が出たことによるという。
ロッキング・オン社の措置は、観客の安全を最優先した結果のものだ。
しかしながら、この措置は、観客にも、出演するアーティストにも波紋を呼ぶことになった。
「ステージの最前列が危険だと認識しないまま入ってこないでほしい」「下手な人のダイヴなんて迷惑以外の何物でもない」「他人にけがをさせる恐れがあるのにやるなんてどうかしている」「予備知識や注意力が足りなくてけがをしてしまうなら自己責任だろう」「ダイヴのないライブなんて物足りない」「ダイヴがなければ音楽を楽しめないなんておかしい」
そもそも、モッシュ・ダイヴの是非を問う議論は、今に始まったことではない。
これまで幾度となく話し合われてきたにも関わらず、肯定派・否定派の間にある溝は埋まらないままだ。
主催者側が決めたルールなのだから、参加する以上、順守するのは当然。
こうした主張は正当なものである。
だが、それでも反論が絶えないのは、ロックやパンクといった音楽の根底にある精神性に起因していると言えるだろう。
アーティストのパフォーマンスに観客が呼応する。
ステージは、そうした相互作用によって作られ、どちらが欠けても成立しない。
モッシュやダイヴも、ライブを構成する表現手段のひとつなのだ。
とすれば、規制は表現の自由をひとつ奪うことになる。
自由を獲得するべく歌われてきた音楽から、自由が奪われてしまうという矛盾。
Yokoyamaが挑発という行為に及んだのは、単純に、モッシュ・ダイヴが見たかったわけでも、ルールを破ることがロックだと言いたかったわけでもない。
Yokoyamaは後日、自身のコラム(横山健の別に危なくないコラム)でこう述懐している。
自分の怒りは「自由であるべきコトが制限されたコトに対する怒り」だ、と。
少なくとも、自分のファンはモッシュやダイヴを望んでいる。ならば、それは制限されるべきではない。
だけど、ここにはルールがある……。
冒頭のシーンは、そうした複雑な葛藤があった末のことだった。
そうしてYokoyamaは、RIJFにおける禁忌を犯した。
しかし、そのパフォーマンスの直後、フェスのプロデューサーのひとりである山崎洋一郎氏は、彼にこう告げたという「あの場で闘ってくれてありがとう」そして、「今後もこの場で闘いを続けて欲しい」と。
また、山崎氏は、Yokoyamaのコラムを受けて、自身のブログでこう返した「横山健のコラムに書かれているいきさつと彼の戸惑いや苛立ちは、まさに『模索』してくれた証だと思う。でも、答えはでなかった。いや、KEN BANDとしての答えはすべてあのステージの経過の中でリアルに出ていたが、でも、それは彼ら自身にしこりを残し、お客さんに戸惑いを残し、僕らに課題を残した。」(山崎洋一郎の日々ロック通信)
フェスとは、ロックの表現とは、どうあるべきなのか。
誰もが模索している。アーティストも、観客も、フェスの主催者側も。
埋まらない溝、平行線をたどる議論。
優先されるべきはルールか、精神性か。おそらく良い・悪いという一元的な答えは出せないだろう。
しかし、だからと言ってこの議論が不毛であると結論づけてしまうのはもったいない。
RIJFにまつわるこうした一連の流れは、ロックという音楽の本質と、それを愛好する者のマナーについて、改めて考えるきっかけを与えてくれたのではないだろうか。
誰かの言葉でこんなものがあります。
「自由とは無軌道とは意味が違う。自由にもルールがあり、その枠からはみ出さない事が自由である」
と。
はたしてモッシュ・ダイヴが自由の範疇なのか無軌道に類するものなのか?
少なくともRIJFの中では無軌道の方に分類されているようです。
冒頭で「ロックなのに良い子でどうすんの?」 という挑発的な発言があったようですが、自由への渇望が云々言うのであればこれも間違いのような気もします。
「良い子でロックを愛する」という一つの自由を否定しているのでは?
まああまり堅苦しい事は言いたくはないのですが、わざわざ観客を挑発する必要もなかったのではないかな?ぐらいには思います。
Ken Yokoyamaは、ステージ上からそう言い放った。
言葉に呼応した観客の間に、たちまちモッシュ・ダイヴが巻き起こる。
それは挑発だったのだ。
目の前の観客と、主催のロッキング・オン社へ向けての。
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Yokoyamaが観客を煽動した理由。
それはROCK IN JAPAN FESTIVAL(以下RIJF)において、今年から執られるようになったルールに起因する。
すなわち、禁止行為であるモッシュ・ダイヴに対して課す、退場という厳重な処分のことだ。
激しいビートに合わせ、観客同士がお互いの体をぶつけ合うモッシュ、群衆の頭上に身を投げ出して、転がってゆくダイヴ(クラウドサーフとも言う)。
これらはもはや、ロックのライブには付き物の行為だが、その荒っぽさから、けが人が出る場合もしばしばだ。
RIJFに限らず、ほとんどのライブ会場において、モッシュ・ダイヴは禁止行為とされている。
しかし実際は、規制を謳いながらも黙認され、具体的な処罰が下されることはほぼない。
そんな中にあって、RIJFで執られた退場という措置は、異例と言えるだろう。
ロッキング・オン社がこうした重い処分を執ることにしたのは、同社が主催する冬フェスCOUNTDOWN JAPANにおいて、後遺症が残るけが人が出たことによるという。
ロッキング・オン社の措置は、観客の安全を最優先した結果のものだ。
しかしながら、この措置は、観客にも、出演するアーティストにも波紋を呼ぶことになった。
「ステージの最前列が危険だと認識しないまま入ってこないでほしい」「下手な人のダイヴなんて迷惑以外の何物でもない」「他人にけがをさせる恐れがあるのにやるなんてどうかしている」「予備知識や注意力が足りなくてけがをしてしまうなら自己責任だろう」「ダイヴのないライブなんて物足りない」「ダイヴがなければ音楽を楽しめないなんておかしい」
そもそも、モッシュ・ダイヴの是非を問う議論は、今に始まったことではない。
これまで幾度となく話し合われてきたにも関わらず、肯定派・否定派の間にある溝は埋まらないままだ。
主催者側が決めたルールなのだから、参加する以上、順守するのは当然。
こうした主張は正当なものである。
だが、それでも反論が絶えないのは、ロックやパンクといった音楽の根底にある精神性に起因していると言えるだろう。
アーティストのパフォーマンスに観客が呼応する。
ステージは、そうした相互作用によって作られ、どちらが欠けても成立しない。
モッシュやダイヴも、ライブを構成する表現手段のひとつなのだ。
とすれば、規制は表現の自由をひとつ奪うことになる。
自由を獲得するべく歌われてきた音楽から、自由が奪われてしまうという矛盾。
Yokoyamaが挑発という行為に及んだのは、単純に、モッシュ・ダイヴが見たかったわけでも、ルールを破ることがロックだと言いたかったわけでもない。
Yokoyamaは後日、自身のコラム(横山健の別に危なくないコラム)でこう述懐している。
自分の怒りは「自由であるべきコトが制限されたコトに対する怒り」だ、と。
少なくとも、自分のファンはモッシュやダイヴを望んでいる。ならば、それは制限されるべきではない。
だけど、ここにはルールがある……。
冒頭のシーンは、そうした複雑な葛藤があった末のことだった。
そうしてYokoyamaは、RIJFにおける禁忌を犯した。
しかし、そのパフォーマンスの直後、フェスのプロデューサーのひとりである山崎洋一郎氏は、彼にこう告げたという「あの場で闘ってくれてありがとう」そして、「今後もこの場で闘いを続けて欲しい」と。
また、山崎氏は、Yokoyamaのコラムを受けて、自身のブログでこう返した「横山健のコラムに書かれているいきさつと彼の戸惑いや苛立ちは、まさに『模索』してくれた証だと思う。でも、答えはでなかった。いや、KEN BANDとしての答えはすべてあのステージの経過の中でリアルに出ていたが、でも、それは彼ら自身にしこりを残し、お客さんに戸惑いを残し、僕らに課題を残した。」(山崎洋一郎の日々ロック通信)
フェスとは、ロックの表現とは、どうあるべきなのか。
誰もが模索している。アーティストも、観客も、フェスの主催者側も。
埋まらない溝、平行線をたどる議論。
優先されるべきはルールか、精神性か。おそらく良い・悪いという一元的な答えは出せないだろう。
しかし、だからと言ってこの議論が不毛であると結論づけてしまうのはもったいない。
RIJFにまつわるこうした一連の流れは、ロックという音楽の本質と、それを愛好する者のマナーについて、改めて考えるきっかけを与えてくれたのではないだろうか。
誰かの言葉でこんなものがあります。
「自由とは無軌道とは意味が違う。自由にもルールがあり、その枠からはみ出さない事が自由である」
と。
はたしてモッシュ・ダイヴが自由の範疇なのか無軌道に類するものなのか?
少なくともRIJFの中では無軌道の方に分類されているようです。
冒頭で「ロックなのに良い子でどうすんの?」 という挑発的な発言があったようですが、自由への渇望が云々言うのであればこれも間違いのような気もします。
「良い子でロックを愛する」という一つの自由を否定しているのでは?
まああまり堅苦しい事は言いたくはないのですが、わざわざ観客を挑発する必要もなかったのではないかな?ぐらいには思います。
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